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#71 『高橋邦弘 俺の蕎麦』
主人公 そば打ち職人/高橋邦弘(たかはし・くにひろ)
1944年12月29日生まれ(62歳)
東京都出身

新潟県糸魚川に生まれ、東京で育つ。高校卒業後、一般企業に就職するが、人に使われるのが嫌で退社。1972年、そば職人・片倉康雄氏の「日本そば大学講座」を受講し、手打ちそばに出会う。翌1973年、『一茶庵』宇都宮店でそば打ちの修業を始める。1975年、東京都豊島区にそば店『翁』を開業。やがて“そば打ちの第一人者”と称されるほど人気を得る。1985年東京の店を閉め、翌年、自家製粉の環境を求めて山梨県・長坂(現・北杜市)に移転。2001年、『翁』を弟子に譲り、広島県豊平町(現・北広島町)に新しいそば専門店『達磨』を建てて移り住む。『達磨』の営業は土日祝日のみとし、あとの日は、そば打ち指導中心の生活に入る。

※2006年11月12日初回放送

第一章・不変

 一枚のもりそば――。そこに宿る職人の魂が、味わいを深め、深遠なるそばの世界を描き出す。

 そばが庶民に広く普及したのは、江戸時代の中頃――。それまで餅状にして食べていたそばを、「そば切り」として、今のように、麺にして食べたのが、きっかけだった。以来、先人達は、より旨いそばを求め、試行錯誤を繰り返す。そして、様々なそばが生まれ、「そば」は、いつしか日本の食文化を代表するものとなった。

 広島県・北広島町――。ここに「そばの聖地」といわれる場所がある。『達磨 雪花山房』。広島市内から車でおよそ1時間――。小さな案内板を頼りに、山道を進むと……。木立の奥に、突如、その姿を現す。人里離れた山間に、それはあった。ここに「神様」と呼ばれる男がいる。そば打ち職人・高橋邦弘――。
  そば好きならば誰もが、一度は食べたいと願う、高橋の打ったそば――。艶やかに光る、一本、一本の麺が、最高の風味と香りを醸し出す。店を開けるのは、土日祝日のみ。しかも、不定期で休みとなる。それでも、真のそば好きが、全国からやってくる。そのそばの旨さは、客の表情で判る。

 高橋の店『達磨』――この店のメニューは、「もりそば」一品のみ。薬味は、白ねぎと辛味大根、そして、地元、広島でとれたワサビ――。高橋のそばの極意は、この700円の「もりそば」に全て込められている。
  「モチッとして硬くない。スッと鼻の中に香りが抜ける」と本人が言う、絶妙な味わいをもたらす高橋のそば――。高橋は常に最高のそばを、客に提供している。

 気温や湿度、空気の流れなど、環境に大きく左右されるそば打ち。いかなる環境においても、高橋の打つそばが、美味しいのは、一体、何故なのだろうか? 高橋のそば打ちを見てみる。高橋が打つのは……小麦粉2割、そば粉8割の、江戸流二八そばである。そば粉に最適な水分量――粉に対して43%だと言う。常に正確に計量する。目分量には頼らない。

 そばを打つ最初の工程――1、「水回し」。そば粉と小麦粉に水を結びつける。「指先だけを使って……粉のひと粒ひと粒に水を回す仕事」と高橋は解説する。

 2、「菊練り」――粉に水分を吸収させる。この工程がそばの香りを高める。しっかり絞り込んだ後、上から押さえる。そして必ず手を洗う。乾燥した手の粉が生地につくと、生地の水分を奪い、そばの味を落とすのだという。

 続いて――3、「延し」。練った生地を、均等に薄く延ばすこと。まずは、丸く生地を延ばす――「丸出し」。生地が乾燥すると、そばの風味が台無しとなる為、素早く正確な作業が求められる。そして「四つ出し」――さらに薄く延ばすと、丸い生地は、四角へと形を変える。力を加減し、全体を均一に同じ厚さで延す。その生地の厚さはわずか1.2mm。生地の厚さを、僅かに見える影の長さで計るという。高橋は、厚さが均一の生地を、完璧に作りあげた。この厚さにムラのない生地が、そばの「のど越し」を高める。

 4、「包丁」――最後の工程。生地の上にこま板を乗せ、呼吸を乱さず、リズミカルに切り進める。同じ太さに切らなければ、のど越しが悪くなる。太さ1.2mm。寸分たがわぬ高橋のそばが完成した。

 そば打ち歴1年半という弟子の山岡良さんのそばと比較してみた。――そば粉・水分量など、まったく同じ条件で打った2つのそば。山岡さんの打ったそばに比べ、高橋のそばは、色が薄く透明感がある。何故だろう?
  2人の技術を検証する――。まずは山岡さんの水回し。そして、高橋の水回し。比較してみたところ、2人の作業に大きな違いはないように見える。
  ――続いては延し。生地を乾燥させないよう手早く、そして、正確に、全体の厚さを均一にしなければならない。山岡さんの生地は、内側が外側に比べ薄くなっている。続いて、高橋の延し。影を目安に、生地の厚さを均一に延す。やはり厚さにムラがない。僅かなムラが、そばの完成度を左右する。

 ――さらに、こま板の使い方も比較してみた。こま板とまな板を平行にして切り進めるのが、理想的な切り方とされる。しかし、山岡さんの場合、最初は平行だが、切り進めるうちに、こま板の方向がズレてしまった。一方、高橋は、リズミカルに切り進め、最後まで平行を保つ。こま板を平行に移動させることで、同じ太さの麺を切り続けることが、可能になる。――太さにばらつきのある山岡さんのそばと、均一に切られた高橋のそばは、その色合いに差が生じる。

 高橋のそばには瑞々しいツヤがある。高橋は、水回しの時に、粉全体に含ませた水分を、最後まで乾燥させることなく、ツヤのある麺を生み出していた。
  2人のそばを、打った本人に試食して貰った。まずは高橋のそば――師匠のそばを食べる山岡さん。続いて山岡さんのそば――高橋の打ったそばと、どのうような違いがあるのだろうか? 「食べ応えがない。弾力、食感が違う」と山岡さんは言う。

 「そばは、『風邪を引かせるな』という。時間の経過や麺棒の転がし方で表面が乾く。すると食感に影響する」と言う高橋は、手早く、正確にそばを打つことで、極上の味を生み出していた。

 如何なる環境でも、常に最高のそばを打つ高橋の技量。2度、同じようにそばを打って貰い、その極意を探る――。まずは延しの工程。同じリズムで作業が行われる。そして、包丁――。高橋は、まるで、身体の中に刻まれた、そば打ちのリズムに合わせるかのように、一定不変な作業を繰り返していた。
  「30個打つとしたら、1個目から30個目まで、いつも同じペースで打ちたい。無駄な動きはしない」と言う高橋。変わらぬ味を求めて、高橋のこだわりは尋常ではない。

 高橋は、「やりたいことをこれからもやっていく……。ますます頑固に」と語る。

 広島県 北広島町――。中国山地の麓に佇む『達磨 雪花山房』。ここが、そば打ち名人・高橋邦弘の店。
  トレードマークが鉢巻の高橋――。5年前の2001年、高橋は、山深きこの地をあえて選び、店を構えることを決めた。一体、何故、この地を選んだのだろうか? ――「人、水、環境」だと言う。

 高橋のそばを、またひとつ新たな境地へと押し上げた広島・豊平の水――。滾々と湧き出る地下水が、そばの味を引き立たせる。美味しいそばに質の良い水は欠かせない。そば打ちの水――。そばを茹でる水――。そして、そばをすすぐ時の水――。『達磨』では全て広島・豊平の地下水を利用している。
  水質分析をすると、この地下水は、日本料理に最適と言われる稀に見る軟水――。広島の豊穣なる自然が、高橋のそばの旨みを、さらに、引き出していた。
 
  高橋がそば作りにおいて、最も重要だと考えるのが原材料――。毎年、新そばの時期、高橋自ら産地を訪ね、質の良いそばを厳選している。現在、高橋が使用しているそばは、全国から選りすぐった5種類。茨城産と北海道産をブレンドして使っている。
  店の裏には、そばを管理する低温倉庫がある。そば粉を産地別に分け、水分量を測り、そばの状態が一目で判るようにしている。室温は5〜7℃に保たれていて、そばは、常に最高の状態で眠っている。
  そのそばを自ら製粉する。それが高橋のそば作りの肝――。製粉の過程で最も手間がかかるのが、そばの皮むき。高橋はそばを脱皮機で9種類の大きさに細かく分類し、皮むきを徹底している。――「完璧に剥く。細かくして剥いて、尚且つ剥けなかったものは目で見て取っている」と言う高橋は、細かい部分も決して見逃さない。――「がくが残ると色が悪くなる。がくは実ではないので、僕にとってはゴミ。ゴミは食べてもらいたくない」と言う高橋。がくの部分も全て完璧に剥くことで、そばの色も香りも引き立つ。皮剥きひとつにも、高橋のそばへの美学が貫かれている。

 「スッとのど越しのいいそばが自分の打ちたいそば。傲慢に聞こえるかもしれないが、自分の好きなそばを作りたい。お客さんには合わせていない」と高橋は言う。
  完璧に皮を剥いたそばの実――。続いての工程は製粉。20年前から始めたという自家製粉は、石臼で行う。3kg程度のそばを1時間かけて、ゆっくりと、挽く。高橋の求めるそば粉は、こうして生まれる。

 「握ると指紋が付く位、しっとりとした粉を挽く。水分が飛ばないように、熱をもたせないようにゆっくりと石臼で挽く。風味、甘み、打ち易さが違う」と言う高橋――。一般に使用されている外国産のそば粉と、比較して貰った。「ロールを使って、2000回転位で切り刻んでいるようだ」と高橋が言う外国産は、高橋のそば粉に比べ水分量が少なく、パサついている。味の方も試して貰った。高橋は、「美味しくない」と感想を述べた。

 高橋が挽いたそば粉を試しに外国産のそば粉に混ぜてみた――青白い色のする高橋の粉は、茶色い外国産の粉とかなり違う。外国産のそば粉は、水分量が少ない為、風味に欠ける。一方、高橋のしっとりとしたそば粉は、そば本来の香りを醸し出す。
  「原材料が良くて、製粉が納得できて、初めて技術。粉にするまでが重要」と言う高橋のそば――。そのそばの旨さを最大限に引き立たせる、自家製のツユを添える。ここに高橋のもりそば完成した。

 洗練された技術と、体に刻まれたそば打ちのリズム。神様と呼ばれるそば打ち職人の極意は、そんな華麗な技だけではない。原材料から製粉まで、そばへの飽くなき探求心が、究極といわれる高橋のもりそばを生み出していた。

第二章・一品

 早朝4時――。そば打ち職人・高橋の1日は早い。日課である朝のトレーニング。高橋は、仕事が始まる2時間前には起床し、そばを打つコンディションを整える。

 そばを打つことに関して、一切、妥協はしない。自らの全てを賭け、全身全霊で作り出す高橋の「もりそば」。この一品に至る道こそ、高橋の人生――。
  1944年――。疎開先の新潟で生まれた高橋。食欲旺盛な少年は、近所のそば屋から香るそばの匂いが大好きだった。少年は、やがてそば打ち職人になることを夢見た。しかし、母に反対されサラリーマンとなる。
  会社員となって10年――転機が訪れた。ある日。高橋の目に飛び込んだ、とある新聞記事――「『日本そば大学』開講」。――「これだ! ひとつやってみよう。なれるものなら、そば屋になってみよう」と高橋は思った。

 そば職人を養成する「日本そば大学」。ここで高橋は師匠となる片倉康雄と出会う。機械による製麺が主流だったその当時、片倉の打つ手打ちのそばの旨さに心打たれた。
  2年のそば打ち修行を経て、30歳で独立。ご飯ものは置かず、出前もしない変わった店、東京『翁』を開いた。――「皆に、『そんな気取った店は絶対ダメだ』と言われた。でも、そばが好きな人がいれば、どんなに条件が悪くても、町中だから、人は来ると思っていた」と高橋は振り返る。
  当時の高橋の店のメニュー、その品数は実に27種類。そば粉から吟味し、全て手打ちというのが、この店の売りだった。「そば好きがいれば店は繁盛する」――そんな高橋の思い通りに、店は口コミで話題となり、いつしか行列の出来る人気店となった。

 当時、そば粉は、製粉会社から仕入れていた。しかし、その粉は、季節によって質が変わっていた。それが高橋には不満だった。――「製粉屋さんから買っている限り、自分の使いたいそば粉は思うように手に入らない。それではダメ。自分で原材料から管理しなければ……」と思った。
  美味しいそばの実を求め、高橋は全国の産地を巡った。北に旨いそばがあると聞けば、北に向かい、南に美味しいそばがあると聞けば、南を目指した。そうして、日本全国のそばの産地を巡るうちに、高橋の胸に、ある思いが募った――「自分でそばを選び、自分でそばを挽きたい」。
  そして、高橋は決意する。――「東京の店を閉めよう」。行列の出来る人気店をあっさりと閉め、向かった先は……山梨。そこは、高橋が自分でそばを挽く最高の環境だった。そばを仕入れ、念願だった自家製粉を始める。「このそば粉ならば旨いそばが打てる」――そう確信した。
  最高の素材で納得のいく製粉をすれば、美味しいそばが打てる。「そば」という素材だけで勝負したいと考えた時、余計なものは必要なかった。27種類あった高橋のメニューは、わずか4種類に絞られる。さらに1年後……、自分で製粉することの出来ない、「更科」・「変わり」の2つのそばをやめ、「ざる」と「田舎」に絞った。高橋は、ただひたすら己のそばの道を究めた。

 山梨でそばを打ち続け15年――。いつしか店は人気を呼び、時間に追われるようになった高橋は、「静かな環境で、もっと自分のそばを極めたい」――その思いで、再び新たな地・広島へと移動した。
  新たな店――。これまでの屋号『翁』を捨て、その店の名を『達磨』と名づけた。この店で出すのは、自分の作りたいそば。「もりそば」のみ――東京、山梨、広島と店を変え、そばの道を究めた結果、辿りついた究極の一品――。広島市内から車でおよそ1時間――。山間の中に佇む高橋の店には、その一品を求め、日本全国から客が訪れる。
  高橋が客に振舞うのは自分が作りたいそば。もりそば一品に、高橋は、己の全てを賭ける。――「ここは高橋邦弘の打ったもりそばしか出さない、高橋邦弘の店。そこまで徹底してやる」と言う。

 そばを打ち始めて32年――。これぞ高橋邦弘のそば――。

第三章・旅

 そば打ち職人・高橋の朝食は、丼一杯のヨーグルトから始まる。そば打ちは体が資本――。朝食はたっぷりととる。

 「人のまだやっていないことをやりたい。やりたいことをやっていれば、ストレスは溜まらない」と言う高橋は、広島に来て、新しく始めたことがある。それは、営業のない、平日に開くそば教室。
  全国から数多くの人が訪れる。丁寧に教えたいと、生徒は1日3人に限定――。生徒はプロの職人から趣味でそば打ちをする人まで様々。そば打ちの基本を生徒に教えることで、自らも基本に立ち返ることが出来る。その為、この教室で、高橋が学ぶことも多いのだという。高橋の生活は常にそばと共にある。

 秋――。新そばのシーズンは、高橋が最も忙しくなる季節。全国から、そば会やそば祭りへの出店の依頼が殺到する。月の半分は地方を巡り、今年11月の営業日は、たった1日。
  そば会やそば打ち指導の為、1年の3分の1は旅に出ている高橋。自分の打ったそばで、そばを愛する人が増えることが、何より嬉しい。日本全国、そば会の依頼があれば、車で何処へでも出かける。

 11月1日――。今回の旅は、広島から車で移動すること1000km以上。目的地は栃木県・日光市。『2006日光そば祭り』に参加する為、この地を訪れた。そば粉や水など必要な材料は全て、車に積んでいる。高橋のそばを打つ台も、広島から運んできた。
  そば祭りは明日から4日間――。もりそば1日1000枚、4日間で4000枚以上のそばを、打つことになる。

 翌朝午前3時前――。高橋は、そば打ちの準備を始めた。そばを打つのは高橋1人。朝3時から7時までの間に、もりそば600枚分のそばを打つ。1回のそば打ちで賄える分量は20枚。高橋は4時間で30回――。手を休めることなく、そばを打ち続ける。

 全国からおよそ20店舗が集まった『2006日光そば祭り』――。高橋の店、『達磨』の前は、神様と呼ばれるそば打ち職人の技を一目見ようと、瞬く間に黒山の人だかり。1日限定1000枚。1枚、1枚、高橋が丹精込めて打ったそば――。作った先から飛ぶように売れていく。旅先で打ったそばも、広島で打ったものとまったく変わらない。
  午後になっても『達磨』の行列が、絶えることはなかった。その間も、高橋は、そばを打ち続けている。高橋はこの日、9時間、たった1人で1000枚のそばを、打ち続けた。

 今後は、「仕事だけでなく、遊びを主体にしたい」と言う高橋――。「大きな仕事ではなく、小さなコンパクトな仕事をしたい。バスの中に一式積んで、パッと行って打つ……。人を驚かすことを積極的にしたい」と語る。

 神様と呼ばれるそば打ち職人・高橋邦弘、61歳――。そばを愛し、そばを楽しむ男。これからも「俺の蕎麦」を打ち続ける。

 
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