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ジャズピアニスト/小曽根真(おぞね・まこと)
1961年3月25日 生まれ(45歳) ※3月18日OA 時点
兵庫県出身
神戸市生まれ。父・実氏もジャズピアニスト。父の影響で幼い頃からハモンドオルガンを習い、12歳でジャズ・ピアノを始める。15歳で大阪の名門ビッグバンド・アロージャズオーケストラに加わるなど中学時代にはセミプロとして活動。高校卒業後、大阪のホテルのラウンジプレーヤーとなって資金を集め、1980年渡米、ボストンのバークリー音楽院に入り、首席で卒業。N.Y.カーネギーホールで"クール・ジャズ・フェスティバル"に出演し、センセーショナルなデビューを飾る。1984年、日本人として初めて米国CBSと専属契約を結び、ソロアルバム「OZONE」を発表。またゲイリー・バートンのグループの一員としても活躍。1990年に帰国。日本での活動を展開。1998年スイングジャーナル誌・ジャズ・ディスク大賞「日本ジャズ賞」を受賞。2001年スイングジャーナル誌上で、読者人気投票で2年連続四冠制覇。2002年ビブラホン奏者ゲイリー・バートンとのデュオ作品「ヴァーチュオーシ」がグラミー賞にノミネートされる。舞台音楽なども担当し、2000年に紀伊国屋演劇賞個人賞を受賞。2007年1月、日本ジャズ界で権威ある賞の一つ、南里文雄賞を受賞。 |
第一章・音霊
心に響く美しい音がふんだんに詰まっている魔法の装置――。指先で触れると、麗しき物語を奏でる。
世界のステージで活躍するジャズピアニスト小曽根真。
その指が紡ぎ出す、色とりどりの音色が、多くのファンを魅了している。
20世紀初頭、アメリカの各地で歌われていた、白人たちのメロディや、黒人たちのリズムが混ざり合って、ジャズは育まれた。名プレイヤーの登場で、独自の演奏法やアドリブなどのスタイルが、次々に確立。自由な風をはらんで変化し続ける音楽である。
小曽根真は、今年1月、日本のジャズ界の発展に寄与した音楽家に贈られる『南里文雄賞』を受賞。
日本のトップジャズピアニストに、新たな称号が加わった……。
小曽根の奏でるピアノは、時に激しく、時に優しく、時には語りかけるようにと、とても多彩である。
まるで、話芸の達人のお喋りを聴くような、味わいを持っている……。
ジャズには『アドリブ』という独奏法がある。楽譜を離れて、自由なメロディを即興で作り出してゆく演奏法で、謂わば音楽のボキャブラリーが多いほど、豊かな演奏ができる。
小曽根は、その音楽のボキャブラリーが、実に多彩なのである。
「ジャズは、なぜ即興が他の音楽よりやり易いかというと、最初の曲のハーモニーは全く変らないから。普通、曲は1番、2番とあれば、2番はメロディが同じで歌詞が違う。ジャズは歌詞を変える代わりに2番のメロディを変える。それがどう展開していくかが、アドリブの楽しさであり、それをどう変えたかを、お客さんも含めた、プレイヤーとのやりとりがあるからジャズは、とても面白い。」と小曽根。
小曽根にとってジャズは、心や気持ちを繋ぐツール。演奏を通して、ステージにいるプレイヤーや、聴いている聴衆に話しかけているのである。
「音楽という言葉を喋っていると理解してもらうのが、音楽家ではない方にはわかり易いと思う。何かを説明するときに、文法を考えて話す人はいない。それと同じで、今、僕が喋っているのと同じように、メロディが出てくるのは、ハーモニーの流れ、メロディの流れをボギャブラリーとして自分たちの中にたくさん持っているから。僕らが日本語を話すのと同じで、それに合った言葉を選ぶように、その時、その時に音を聴いて(メロディを)作っていく。」と小曽根は語る。
一つの例を検証する、 彼のオリジナル曲「Bienvenidos Al Mundo」の出だし部分を奏でてもらう。
同じ部分を、違うバリエーションで演奏してもらう……。
メロディは同じでも印象ががらりと代わった……こんな具合に、一つの曲が、そのときの気分で“色”を変える。
小曽根は言う。「まったく言葉の流れと一緒。ここを聴いているから、次の音が出てくる。(音楽は)感性に直接、受け手に届く、言葉以上のコミュニケーションツールだ。基本の部分はハーモニーやメロディなどが言葉として(ベース)カラーを作っていく。ベースにはそういうルールがあるし、文法もある。」
小曽根のピアノは、その場の雰囲気に一番ふさわしいメロディラインを辿って、楽しくストーリーを語るのである。
さらに小曽根は、ピアノの音色の美しさにも定評がある……。
「楽器を弾く人間にとって、その人らしさ、音色がある。」と小曽根。
奏でる音色の中でも、“小さな音”で表現するパートは、特に難しいという……。
「エネルギーを溜めておいて、小さい音で弾くことは、本当に大事で、エネルギーがないと、頼りない音になってしまう。(エネルギーを溜めて)弾くと、音は全然小さいのに、しっかりと音の芯があって“音霊”がパーンとでてくる。」と小曽根は言う。
小曽根は丁寧に、一つ一つの音に色艶を与えながら、ピアノを愉快に歌わせるように演奏して、魅力ある音楽を紡ぎ出すのである……。
そして小曽根は、また新たな色合いの“音”を手に入れた!
2006年12月東京Bunkamura オーチャードホール。モーツァルト作曲の「2台のピアノのための協奏曲 変ホ長調」を演奏する小曽根。名実共に日本を代表するジャズピアニスト小曽根真は、もう一つの顔を持っている――。
――それは、クラシックピアニストという顔である。
これまで、ジャズとクラシックでは、ピアノの演奏法が根本的に異なるため、このジャンルを行き来することは、
ピアニストにとして悪影響を及ぼすと云われてきた。
しかし小曽根は、あえてこの垣根を越えることで、演奏家として得難い技術を手にすることができたという……。
「ジャズの場合お手本はない。(お手本となる)プレイヤーはいるが、こう在るべきというものはない。個性を音にするわけだから。しかし、クラシックの場合は殆ど完璧に近いお手本がある。」とジャズとクラシックの違いを小曽根は語る。
そのクラシックの世界に浸り、ジャズにはない、謂わばクラシックのボキャブラリーを身につけようというのが、小曽根の意図である。
そんなクラシックの中にも、ジャズに通じるパートが存在する。
コンチェルトやアリアなどに挿入される、『カデンツァ』と呼ばれる一節がそれ。ソリストのテクニックを披露するため、即興的に演奏される部分のことである。
はじめは完全な即興だったが、時代と共に作曲者自身が楽譜に書くのが普通となった。しかし小曽根は、この部分を得意のアドリブ感覚で弾きこなしてみせる……。
クラシックにはクラシックの『語り方』というものがある。それを壊すことなく、如何に自分の言葉として弾きこなすことができるか。
――それが、小曽根が愉しみながらクラシックに挑戦している理由である。
そして、クラシックの演奏法を身につけたことで“ジャズプレイヤー”としての表現の幅も、広がったという。
ただメロディラインを追いかけて、機械的に音を重ねてゆくのではなく、表現したい感情を込めて、ピアノの中から、豊かで美しい音色を引き出し、場の隅々にまで響かせてゆく……。
クラシックを手がけることで小曽根は、そんな、ピアニストとして理想的な演奏法を身につけたのである。
音楽の中に息づいている『物語』を、うっとりするような美しい声で語ること――。それが、小曽根が理想としている『演奏すること』なのである……。
「(演奏に)生き様が見えない形で乗っかっていく。それをお客さんは感じる。上手に弾く事は簡単、練習すれば良い事だから。しかし、ただ上手なだけでは、全然伝わらない。」と小曽根。
第二章・響
コンサート開演数時間前の、小曽根の楽屋……。驚いたことに曲順を今考えているのだという。
小曽根はいつも幕が開くギリギリの時間まで、曲順を決めない……。
「出て行って、そのときに一曲弾き終わったときの会場の空気というものがある。自分がお客だったら、次はこんな曲を聞きたいということを感じる。自分がお客になった気持ちで感じていれば、次の曲を想像しながら(舞台の流れを)作る。だから、まだ曲目リストには何も無い。」と小曽根は説明してくれた。
演奏する小曽根と、観客席の聴衆が、一緒になってステージを作り上げてゆく……。 みんなで楽しむ、そんな小曽根の流儀は、彼がジャズに出逢ったときからのスタイルである。
1961年、小曽根真はジャズで賑わう街に生まれた。
父は日本のジャズ草創期を彩るジャズマン。母は元タカラジェンヌという家庭だった。
「それこそ母親のお腹にいた頃からジャズを聴いていたから、それが一番、自分にとって普通に聴ける音楽」と小曽根は言う。
小曽根は4歳の頃から、父の影響でごく自然に電子オルガンを演奏し、みんなで楽しんだ。
その演奏センスは抜群で、6歳になる頃にはいっぱしのジャズマンとして、プロ意識を持っていたという。
「5歳くらいになったとき、音楽教室を教えている生徒さんに、僕がピアノを教わった。そのときやったバイエルでクラシック大嫌いになった。それでもうクラシックは弾かない、譜面はいらない、ピアノは嫌だと思った。」と当時を振返る小曽根。
そんな彼が、一転してピアノの虜となったのは、11歳の時。たまたま聴きに行ったコンサートで、 衝撃的な演奏に出逢った。
ジャズピアノの巨人、オスカー・ピーターソンのライブ……。
「あれはショックでしたね。自分の何年かを取り戻したいと思うくらい、ピアノをやっておけば良かったと思った。コンサートでオスカー・ピーターソンを見て『なんや、ピアノでジャズ弾いてええんや!』と。」と小曽根は語った。
小曽根少年は早速、ジャズピアニストに転身、耳で聞いた名曲をすぐにものにして弾きこなし、セミプロとして小遣いを稼ぐまでに上達した。
そして高校を卒業するとすぐに渡米。バークリー音楽大学に入学して、ジャズを学んだ。
専攻したのはピアノではなく、作曲とアレンジ。嫌いだった楽譜にみっちりと向き合う毎日を送った。
「バークリーで僕が勉強したことは、アレンジや楽譜を書くこと。音楽の中でもアカデミックなほうの勉強をした。(当時の自分を)例えれば、日本語は喋ることができたが、読み書きはできなかった感じ。もの凄くコンプレックスがあった。」と小曽根は振返る。
それまで小曽根は、名演奏を聴こえるままにコピーして身につけた。テクニックはたくさん持っていたが、理論的な裏付けはなかった。
そこで彼は、それまで蓄積した演奏テクニックを一つ一つ確かめるように、アカデミックな解析を試みた。
すると、小曽根の中に沸々と、自信に満ちた感情が沸き上がってきた!
「理論の勉強をすることによって、俺が今までやってきたことは、全部正しかったんだ、間違いではなかったんだということが分かった。」と小曽根。
霧が晴れたような瞬間だった。
理論的な裏付けを得ると、小曽根の演奏表現は明快さを増し、ますます磨きが掛かった。
そして、小曽根はバークリーを首席で卒業。
すぐにアメリカのメジャーレーベルと、日本人のジャズマンとしては史上初めての専属契約を結び、アメリカを拠点に活動を開始した。
帰国後も精力的にコンサート活動やアルバムを発表。 グラミー賞にもノミネートされた。
まさに順風満帆。ジャズピアニストとしてトップを切っていた小曽根が、ある日、雷に打たれたように立ち止まった――!
あるクラシックの演奏会で耳にしたピアノの音色に、心奪われてしまった。
演奏していたのはクラシックピアニスト、ベリー・スナイダー。あまりの美しさに、衝撃を受けた。
ジャズマンとして、順調に積み上げてきた仕事を中断してでも、小曽根はそのピアノの音色を、自分のものにしたくなった。
そして、2004年、43歳のとき、小曽根は一念発起して、再びアメリカに留学。珠玉の音色を奏でていたベリー・スナイダーが教授を務めている音楽院の門を叩いた。
それは、自分の中で30年もの時間をかけて構築してきた常識が、根底から覆るような経験だった……。
「色んな理屈が判って、どんな風にクラシックのミュージシャンたちが弾いているか、どういう音色を出して何を聴いているかが分かったら、自分の音を、何故こんなに薄っぺらいところで音を出していたのだろうと気付いた。怖くて、簡単なフレーズさえ弾けなくなってしまった。」と小曽根は振返る。
苦悩する小曽根に、ベリー・スナイダーは、静かに云った――。
『鍵盤だと思わず、バイオリンの弦を弾くようなイメージで弾いてみたらどうだい?』
ジャズの場合、ピアノを打楽器のように演奏することはある。そのイメージを頭から追い出して、まるでバイオリンの弓で、弦の上を弾ませるように鍵盤にタッチしてみろという……。
指先を柔らかくして、イメージしながら鍵盤に触れてみた――。そのときピアノから流れ出た音は、まさしく、小曽根がすべてをなげうってでも欲しいと思った、あの音色だった……。
クラシックで手に入れた音色で、小曽根のピアノは生まれ変わった。
第三章・対話
小曽根は現在、多様なジャンルのミュージシャンたちと、積極的にコラボレーションを行っている。
1月。今日は、日本を代表するバンドネオン奏者、小松亮太とのリハーサル……。小曽根は、タンゴという、新たな音楽の言葉に挑戦する。
小曽根と小松は初めての共演、演奏する曲は、このコラボレーションのために小松が書き下ろしたオリジナルである。 二人の演奏を合わせながら、形作ってゆく。
タンゴの世界観に戸惑いながらも小曽根は果敢に挑んでゆく。まるではじめての外国語を話すような違和感……。
二人の一流のソリストが、ジャンルを超えて少しずつ対話を重ねてゆく。
仮の録音をして、曲の全体像を掴む――。
「相当練習した。楽譜の部分ではなくて、タイムの感覚や、その時出さなくてはならない音色とか。譜面を見ながら合わせているときは分からない。それが、録音して、曲の全体像が見えると分かってくる。」と小曽根。
こうして小曽根は、新しい音楽の言語を会得してゆく……。
共演者の小松亮太は言う。「はじめはねピアノとバンドネオンが一緒にやること自体が余りないので、どうなるかと思っていた。今は良い感じではないかと思う。それは小曽根さんが、自分が知らないジャンルにも、いつでも挑戦しようという人だから。」
北海道・札幌。そして、コンサート当日。
小曽根は、ステージに……。そして、ゲストの小松を呼び入れた……。そして、2人の演奏が披露される。曲は小松亮太さんのオリジナル曲「Sim Nada
de Particular」。
今後、小曽根が目指す音楽とは何かと尋ねてみた……。
「少しでもここが豊かになれば。(聞く人の)心の中に花が咲くように、これから自分がこの世から消えてなくなるまでの間に、それがどれだけ出来るだろうかと思う。」と小曽根は答えてくれた。
小曽根真は、豊富な音楽の言葉を操りながら、ピアノで物語を語り続ける――。
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