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#89 『山本昌 24年目の野球小僧』
主人公 中日ドラゴンズ投手/山本昌(やまもと・まさ)
1965年8月11日(42歳)
神奈川県出身


小学3年から地元の少年野球チームに入る。日本大学藤沢高校在学中には完全試合を達成。1984年、中日にドラフト5位で入団。怪我などで伸び悩むが、1988年米国・ドジャーズ傘下1Aに野球留学をし、スクリューを会得。13勝6敗の好成績を修め、帰国する。同年8月に一軍へと上がり、初勝利を挙げ、その年のリーグ優勝に貢献。3度の最多勝の獲得ほか、最優秀防御率と最多奪三振を1度ずつ獲得。1994年には、沢村賞にも選出される。2001年、通産1500奪三振を達成。2006年9月16日には対阪神戦で41歳1ヵ月という史上最年長でノーヒットノーランの快挙を達成。今年2007年は通算200勝まであと7勝と注目を浴びている。不惑を迎え、なお進化しつづけている。

※2007年4月1日初回放送

第一章・速球

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 2006年9月16日。中日対阪神戦。その日、ナゴヤドームのマウンドには、大記録に挑む人の男がいた。
 1本のヒットすら許さない、ノーヒット、ノーランの記録。男はプロ入り23年目にして初めて、その記録を打ち立てた。史上最年長41歳1ヵ月で成し遂げた球史に残る偉業。そして、今年の春、山本昌は24年目のシーズンを迎えようとしていた。

 昨年の偉業のことなど忘れてしまったかのように、いつもの年と変わらず、開幕に向け、静かに準備を整える。
 1984年、高卒ルーキーとして、ドラフト5位で中日に入団した山本昌。4年に渡る2軍での下積みを経て、23歳で才能が開花。一軍に定着すると、ローテーションの一角を担い、中日の4度のリーグ優勝に大きく貢献した。これまで最多勝を3度受賞し、200勝まであと9勝という日本球界を代表する左腕である(2007年3月29日現在)。

 名投手としてマウンドに君臨する山本昌。そんな山本昌の武器は、打者の読みをはずす巧みな投球術。そして、勝負どころで見せる切れの良い多彩な変化球。その為、山本昌のピッチングは、「頭脳派」「技巧派」などと評されることが多い。しかし……。

 自身、山本昌はどんな投手かと尋ねると「僕は速球派です」という答えが返ってきた。続けて山本昌は「まわりは自分のことを“技巧派”というかもしれないが、まっすぐあってのピッチング組み立てだと思う。昔からその思いは一貫している」。
 速球を主体にピッチングを組み立てる松坂大輔。投球の中でストレートが占める割合は46%。一方、山本昌の投球。ストレートの割合は松坂に匹敵する45%。山本昌と同じく技巧派のイメージが強い、阪神・下柳は、僅かに8%。
 自らを「速球派」と評する山本昌の言葉は、データでも裏付けられていた。しかし、松坂のストレートは150キロ台。一方、山本昌のストレートは、130キロ台である。

 速球派という山本昌だが、そのスピードは、現役ピッチャーの中でも2番目の遅さ。ストレートが遅いにも関わらず、何故、山本昌は、次、次とバッターを打ちとることが可能なのだろうか? その秘密を探る。
 山本昌のストレートを1秒間で1000コマ撮影出来る超高速度カメラで分析してみた。映像を見つめる山本昌。彼が注目する1番のポイントとは?
 「僕はリリースのところの手前からリリースまでに、どれだけ力を伝えるかということ。その力は小さいよりは大きい方がいい」と山本昌。
 リリースする瞬間に、指先からボールへとどれだけ大きな力を伝えられるか? ピッチングの全ては、その1点にかかっていると山本昌はいう。理想的なリリースに成功した時、山本昌のストレートは、スピードが遅いにも関わらず打者を打ちとることが出来る。それは一体何故なのか?

 その秘密を山本昌を始め数多くのトップアスリートを指導するトレーニング科学の専門家・小山裕史氏に解析して貰った。
「(特徴は)球のスピン量の多さ。130キロだと思って対戦すると大変な目にあう可能性がある」
 スピン量が多いという山本昌のストレート。プロ入り2年目の佐藤亮太投手と比較してみた。ボールの回転数に注目して欲しい。確かに山本昌のスピン量は多い。回転数を数えたところ、4分の1秒の間に山本昌のボールは13回転。一方の佐藤投手は7・5回転。山本昌のボールは、佐藤投手のおよそ倍のスピードで回転していた。プロ野球投手の一秒間の平均回転数は30回転といわれている。山本昌のボールは52回転。

 このスピン量の多さは、山本昌のストレートに如何なる影響を与えているのだろうか?
「球のスピン量が高いので、私たちは“空気に乗っている”と表現しているが、バッターがその球を打とうとすると、手前まで落下する速度が他のピッチャーと違う」と小山トレーナーは説明する。
 物理学的には、時速145キロで垂直に放たれたボールは、重力に引っ張られキャッチャーに届く頃には、91センチ落ちる計算となる。バッターは経験上、この軌道を予測してバットを振っている。しかし、スピン量が多いとボールが落ちにくくなり通常とは違う軌道を進む。結果、バッターの予測は外れ、そのバットは空をきる。

 では何故、スピン量が多いとボールは落ちなくなるのだろうか?
 それは空気の流れと関係している。ボールが縦回転すると、ボールの上側では、進行方向と同じ向きに空気が流れている為、その流れが速まり空気の密度が低くなる。一方、ボールの下側では、ボールの回転と空気の流れがぶつかることで空気の密度が高くなる。この密度の差によってボールは上へと押し上げられる。
 山本昌のストレートは、まるで空気に乗っているかのように落ちることなくバッターへと向かっていく。打者を惑わすストレート。山本昌のストレートの軌道についていけないバッターは、空振りを重ねる。しかし、山本昌のストレートの秘密は、これだけではない。

 チームメイトの二人が山本昌についてこう語った。岩瀬仁紀選手「キャッチボールをしていても、球の速さはないが結構、差し込まれたりする」。谷繁元信選手「バッターから見ると、(山本昌のボールは)差し込まれてくる感じ。ポイントが近づく、球の速さが135キロしか出ていないのにバットを振るのが遅れてしまう」。

「差し込まれる」山本昌のストレートとは、一体、どのようなボールなのだろうか?
「球にキレがあるよね。手を離したところからキャッチャーミットまでのスピードが変わらない」と谷繁は語る。
 山本昌のストレートは、ボールをリリースした瞬間の初速と、キャッチャーミットに届く終速のスピードの差が、少ないという。本当にそうなのだろうか? 実際に計測してみた。

 ストレートの初速。125キロ。終速。117キロ。10球の平均値で、その差は8キロ。プロ野球投手の投球の速さの平均値は、その差が10キロから12キロだといわれている。初速130キロのボールは、バッターボックスまで、およそ0.4秒で到達する。しかし、山本昌が130キロのボールを投げた時、到達する時間は、それより0.03秒速い。それは、距離にしておよそ15センチに相当する。0コンマ1秒、ミリ単位で、タイミングを計るバッターにとってその差はあまりに大きい。
 130キロのスピードに対する通常のタイミングで、バットを振ろうとするとタイミングが遅れてしまう。つまり、山本昌の130キロの遅いストレートに差し込まれてしまうのだ。

 初速と終速の差が少ない山本昌のストレート。それを可能としていたのも山本昌の特徴である、ボールのスピン量の多さだった。
 ボールが前に進む時、ボールの後ろには、空気の密度が低い領域が出来る。この部分の圧力は低くなり、回りの部分を引っぱる力が働く。その結果、ボールは後ろに引っ張られてしまう。しかし、ボールの回転が速いと空気がその領域にも流れ込み、圧力の低い部分も小さくなる。その結果、ボールを後ろに引く力も弱まり、スピードの落ちるペースも遅くなるといわれている。

 130キロ台の遅いストレートを「魔球」に変える、山本昌のスピン量。何故、山本昌は、それほど多くのスピンをボールにかけることが出来るのだろうか? スーパースロー映像でそのフォームを分析してみた。
 山本昌のピッチングの極意は、下半身で生まれたエネルギーを、如何に指先まで効率よく伝えるかということ。足を振りかぶるとまず、腰の辺りにエネルギーが生まれ、次に移動を始めると前へと進む力が加わる。そして、着地した瞬間、反発し生まれた力が、上へと向かう大きなエネルギーとなる。山本昌は、そのエネルギーをロスすることなく指先へと伝えていた。
 比較の為、佐藤投手にもストレートを投げて貰った。佐藤投手に比べ山本昌の膝は曲がることなく、着地した際に生まれたエネルギーを、ロスせず上半身に伝えている。重心も、佐藤投手は後ろに残っているが、山本昌は前に向かいエネルギーをロスしていないことが分かる。さらに、重心移動と体の回転に合わせ腕を振り、エネルギーを前へと伝えている。そして山本昌は、腕へと伝わったエネルギーをボールを投げる方向とほぼ同じベクトルで移動させている為、力が分散せず、より多くのエネルギーを指先へと向かわせることに成功しているのだ。
「しっかり立てて前の方で投げたいという思いは常にある。手を振って投げるということは意識している」と山本昌。体全体で生まれたエネルギーの全てを、理想的なフォームで、指先に伝える。そして、指先に集まったエネルギーを最大限に使い、渾身の力でボールを切ることで、スピン量の多い山本昌のストレートは生み出されていた。しかし、山本昌の卓越した技術はこれだけではない。長く現役で戦うことが出来る秘密もこのフォームの中に隠されていた。

 130キロ台の遅いストレートで打者を打ち取り、名投手としてマウンドに君臨する24年目のベテランピッチャー・山本昌。200勝まであと9つ(2007年3月29日現在)に迫る名投手・山本昌の武器は高速回転のストレートだけではない。彼を支えるもう一つの卓越した技術。それは、抜群のコントロール。

「自分はストライクのとりかたが他の投手より、うまいと思う」と山本昌。
 山本昌がノーヒットノーランを果たした試合でも、その能力は遺憾なく発揮されている。バッターは5番・浜中(阪神)。初球のストレートは、僅かにストライクゾーンを外しボール。2球目はコースいっぱいのストライク。3球目は高めに投げ、空振りを取る。次のボールは外角に僅かに外れる。ツーストライク・ツーボール。最後は決め球の沈むボールで三振を奪った。5球全てストライクゾーンぎりぎりのコース。
 山本昌はこの精密なコントロールにより、相手打線を沈黙させるのだ。

 日ごろからピッチングで気をつけているのはコースだという山本昌。山本昌が思うストライクゾーンは、コースぎりぎりの直線部分だけ。基本的に低めで、外に投げることを心がけ、ど真ん中に投げてもいいと言われても、山本昌にとっては投げづらいのだという。そこへと投げられるのには理由がある。
「前の方で最後までボールを持っている。それが、しっかり出来ていれば、他の部分はぶれないと考えている。自分の投げる形を作るのには技術があると思っている」と山本昌。
 山本昌は、高速回転のストレートを、コースぎりぎりに投げるという類稀なるピッチング技術を武器に191の勝ち星を積み重ねた。今年、42歳になる山本昌。

 今もなお一線で活躍出来る秘密は、何処にあるのだろうか?
「身体(肩が)壊れづらい投げ方をしているのではないか」と自身を分析する山本昌。山本昌の言う「壊れづらい投げ方」とは一体、どういうことなのか?
 山本昌は、肩甲骨の周りの大きな筋肉を使い、無理のない動きで腕を振り上げている。その後も、自然な腕の形を保ちながら、体の回転を使って、腕を振りぬく。その為、肩やヒジに負担がすくない。こうすると、腕を上げてくるときのストレスが無いのだという。
 佐藤投手のフォームと比較してみた。佐藤投手の場合、肩を使って腕を振り上げている。そして、体をひねり腕をしならせボールを投げ込んでいる。
 2人のピッチングフォームを映像で比較検証する。別の角度からみてみると、さらに2人の違いが分かる。山本昌は腕を高く振りあげ、そして体の右側を軸に、体を回転させ素早く腕を振りぬいている。このフォームが、体にかかる負担を大きく軽減しているという。

 小山トレーナーによると、ボールを持つ腕が横にある時間が長いと鉄アレーをもっているのと同じなのだという。腕を自然に振り上げ体の右側を軸にし、体の回転と同時に素早く腕を振りぬく。肩とヒジに負担のかからないこのフォームこそが、長い現役生活を支える山本昌の投球術。
「ちょっとしたところで故障につながったりする。ピッチングやフォームの理想の追求は限りない。自分が納得できるボールを投げていくだけだ」と山本昌。
 高速スピンが生み出す重力に抗うストレート。初速と終速の差が少ないそのストレートは、打者のタイミングを外す。緻密なコントロールで、相手打線を沈黙させる速球派・山本昌。
 24年目を迎えた彼の最大の武器は、130キロ台の打てないストレートだった。

第二章・脇役

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 球界を代表する左腕・山本昌の趣味はラジコン。オフの時は暇を見つけラジコンを走らせる。趣味とはいえその技術は一級品。全国大会に幾度も出場するほどの腕前を持つ。
 ラジコンの1番面白いところは何処かと尋ねると、山本昌は「上がいるということ。ラジコンはたかが指先のことではあるが、幾らやっても勝てない相手がいるというのは面白い」と答えた。
 上には誰かがいる。山本昌は、これまでも誰かの背中を追いかけ走り続けてきた。

 3人兄弟の次男として生まれ、野球を始めたのは小学3年の時。ポジションはピッチャー。しかし、ずっとエースの活躍を、ベンチから見つめる補欠選手だった。
 中学でもベンチウォーマー。活躍の機会はなかなか巡ってこなかった。中学時代の野球部監督・角田明氏は中学時代の山本昌を振返る。
「彼にはエースクラスの人がくずれた時。仕方なくピッチャーをやらせた。だが、普段の練習で手を抜くようなことはなかった」。
 陽の当たらない場所にいても、決して腐ることとなく、練習に励んだ日々。ずっと補欠でいた時はあいつをぬいてやろうとか思ったが、勝てる見込みはないように山本昌少年は考えていた。
 自分は“並”クラスだと思っていた。そして、中学3年の時、チャンスを掴む。エースが故障し、戦線離脱。常に準備を怠らなかったおかげで、毎試合、目の覚めるようなピッチングを見せ、17もの勝ち星を挙げる。
 高校3年生でようやくエースの座を勝ち取った。しかし、甲子園に出場することもできず、特に注目される選手ではなかったが、それでも黙々と練習に励んでいた山本昌は、大きなチャンスを掴む。神奈川県高校選抜の一員として、社会人チームと対戦し、番狂わせの勝利。素晴らしい投球を見せた山本昌は一躍、脚光を浴びる。

 この試合をきっかけにプロのスカウトも山本昌に注目。そして……、ドラフト5位で中日に入団。この時、彼はこんな目標を口にしている。
「3〜4年ぐらいで一軍にあがれたらいいな」。学生服姿の山本昌。しかし、プロのレベルは山本昌の想像を超えていた。長い下積み生活の始まりだった。
 当時の中日ドラゴンズ監督、星野仙一氏は山本昌について、「昌の最初の印象はでかい奴だな。どんな速い球を投げると思ったが、投げさせてみると、まったく速くなかった。“もっとボールを速く投げろ”と言ったら、“これが最高です”と答えた。こりゃ、ダメだと思った」と出会いの頃を語った。

 山本昌はひたむきに練習を積んだ。しかし、プロでは巡ってきたチャンスを活かすことは出来なかった。プロ入りから4年経っても、結果の出せない山本昌は、アメリカ・マイナーリーグへの野球留学を命ぜられる。
「(星野監督にとって)邪魔だったからじゃないですか? 冗談じゃないよと思ってました」と振返る、山本昌。
当時、中日ドラゴンズ監督だった星野にとって山本昌は、既に戦力外だった。けれども、彼はこれまでと同じように再びチャンスがやってくることを信じ、アメリカの地で真剣に野球と向き合った。
 遥か遠くアメリカでひたすら投げ続けた。5日ごとに巡ってくるローテーション。山本昌のピッチングは、知らぬ間に逞しさを増していた。

 アメリカで波に乗る山本昌。その活躍は海を越えて、日本にも届いていた。
「ファックスでアメリカでの試合データを貰ってビックリした。しかもアメリカのオールスター戦に出場したという。帰国させてみたら見違えるほど良いピッチングになった」と星野氏はその時の驚きを語った。
 8月に帰国した山本昌は、星野監督だけでなく、日本球界をも驚かせるピッチングを見せる。アメリカ留学というチャンスを活かした山本昌。この年、負けなしの5連勝。中日のリーグ優勝に大きく貢献した。

 その後も快進撃は続く。1993年、1994年には、2年連続最多勝に輝き、山本昌は絶頂期を迎えていた。しかしその時、思いもかけない悪夢が山本昌を襲う。それは投手生命をも脅かす「ひざの故障」。
「もう終わりかなと思った。走ることができなくなったら野球人生も終わると感じた」と言う山本昌。
 故障から復帰したものの球威は戻らなかった。年齢も30を超え、「山本昌はもう終わった」とも囁かれ始めた。しかし山本昌は、この時も決して諦めなかった。

 彼は自ら行動を起こしトレーニング科学の専門家・小山のもとを訪ねる。革新的な理論で日本のスポーツ界の常識を打ち破った小山。短距離界の伊東浩司、メジャーリーガーのイチローなど、彼のもとを訪れるトップアスリートは多い。
 山本昌の投球フォームを初めて見た小山は言った。「足の使い方がいい」。
 山本昌は驚いた。「足の使い方がいいなんて初めていわれてビックリした。ピッチングフォームは、いつも馬鹿にされる位なのに、小山トレーナーには良い投げ方していると誉められた」。
 小山は、山本昌の投球フォームを論理的に分析し、的確な指示を与えた。
 
 小山は論理に裏付けられた投球術を、山本昌に授ける。ピッチングの極意は、重心の移動エネルギーを如何に腕に伝えるかということ。その為に体の右側を軸にして投げる。山本昌は小山の指導のもと投球フォームを修正した。その結果、いつしかストレートのスピン量が増していた。

 高速スピンのストレートを完全に会得する為、練習を重ねるうちに彼はあることに気づく。「この投げ方は体に楽だ。そして、故障した膝にも負担が少ない」山本昌の投球術が完成した瞬間だった。
「それまではただ投げているだけだった。自分の投げる形やメカニズムがわからなかった。だから、当時は懸命に勉強した」と山本昌。そして、迎えた97年のシーズン。山本昌は見事に復活を遂げる。この年、最多勝と最多奪三振の二冠に輝いた。
 補欠という脇役から始まった野球人生――。山本昌は今、カクテル光線眩いスタジアムの主役として、輝き続けている。

第三章・一勝

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 正月明け、山本昌は小山トレーナーのもとで練習を開始した。
 小山トレーナーとの出会いから11年。変わることなく、山本昌は、この場所をスタートの地と決めている。
 今年で42歳。しかし、常に新しい挑戦は忘れない。

 少しでも進化した自分を求め、ピッチングフォームを固めていく。そんな山本昌をサポートするのが、小山トレーナー。山本昌は小山の指導のもと、新しい変化球に挑戦していた。
 大投手の証である200勝という記録。山本昌はその大記録達成まで、あと僅か9勝に迫っている(2007年3月29日現在)。
「実は200勝については、あまり気にしてない。あせりも無い。僕の200勝より首位争いを優先しながら投げたい」と山本昌。
 山本昌には決して諦められない夢がある。それは日本一の夢。幾度もその夢に挑戦しては、跳ね返されてきた。最初に日本シリーズの舞台に、立ったのは19年前のこと。山本昌は勝ち星をあげることが出来ず、チームも敗れ去った。以後、3回、日本シリーズに出場したものの、一度も日本一になることは出来なかった。
 山本昌は、シリーズで通算5度の先発の機会がありながら、その全てで勝ち星を逃がしている。
「常に優勝争いの中心で頑張ってきましたが、一度も優勝を成し遂げていないというのは恥ずかしい。優勝して、自分の名前を刻んでから辞めたいと思う」と山本昌は言う。
 日本シリーズでの「一勝」、そしてチームの日本一。山本昌は、その夢に向けて走りだした。

 24年目のシーズン。41歳で迎える「開幕」に向けたオープン戦――。少年時代、白球を追ったあの時と変わらぬ夢が、スタジアムに広がっている。
 電光掲示板には、今年もその名が幾度も表示されることだろう。130キロ台のストレートを武器に、投球を組み立てる。あせりはない。しかし、夢を追う時間は、刻一刻と減っていることを自分自身が1番、よく知っている。
「若い時、より自分自身に厳しくしている」。どうやって良いものを長く、その状態を保ち続けるかを考えている」。
 一勝の重みを背負いマウンドに立つプロ野球投手・山本昌。24年目のシーズン。未だ彼は夢の途中。

 
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